神明宮由来
天照皇大神、豊受姫神を御祭神とし、古来より“お神明(しんめい)さん”の愛称で親しまれ、金沢旧五社(藩政期より藩主・前田家の信仰特に厚く、中別当(なかべっとう)または社僧が奉仕しないで、神官だけが守護する五つの神社)の一社で、加賀藩五代藩主・前田綱紀は当宮を氏神とするに至りました。又当宮は全国七神明(他の六つは東京・芝神明、山形・湯殿山神明、大阪城神明、長野・安曇神明、京都・東岩倉神明、京都・朝日神明)、または三神明の一社と云われます。
あぶりもち神事
悪事災難厄除にご利益がある社として古来より「祓宮(はらいのみや)」と言われ、特に春秋の例大祭は「お日待祭(ひまちまつり)」、「あぶりもち神事」と呼ばれ、三百年以上続く全国只一つの悪事災難厄除伝統特殊神事として有名です。
加賀藩二代藩主・前田利長が春秋両度の祭礼を厄除神事として奨励し、御祭神のご利益を広く民衆に広める手立てとして、祭毎に供える餅を御幣(お祓いの用具)形に串刺しにしたものを飾って“家守(いえまもり)”とする一方で、聖火にあぶったものを食して身体の災厄を免れる信仰として自ら範を示した事が起源とされます。
神明の大ケヤキ
境内には樹齢約千年と言われる金沢市指定保存樹第1号の大ケヤキ(樹高33m、幹周7.83m、枝幅25m)があります。この大ケヤキは「神明の大ケヤキ」と語り継がれ、地域住民から親しまれており、県内で最も大きなケヤキです。
左義長、伊勢踊り
金沢の左義長の元祖としても知られ、藩政時、毎年正月の城内の諸門・藩主の居間等に掛けられた注連縄は当宮に持参し、寺社奉行立会いの下に焼かれるのが慣例でした。
又元和七年(1621年)頃には伊勢踊りが大流行し、人々は当宮と城の間を練り、その賑わいは江戸の神田祭・浅草の三社祭に匹敵するほど盛大であったと伝えられます。
中原中也、室生犀星、武士の家計簿、お百度参りと小野太三郎
昭和初期の詩人・中原中也は幼年期を金沢で過ごした際、父に連れられて当宮境内で軽業を見た自らの思い出を題材にして詩『サーカス』を作ったと云われています。また“金沢の文豪”室生犀星も幼年期を当宮近くの寺院・雨宝院で過ごしたため、幼い頃当宮境内をよく遊び場にしていたと云われています。
また、当宮は、磯田道史著『武士の家計簿』の主人公・猪山家とも縁深く、当宮が猪山家の氏神でもあった為、子弟の初宮参りなどをはじめ、度々参拝に訪れていたと云われます。
更に、日本で最初に社会福祉事業を興し、最も古い社会福祉施設として全国的に知られている陽風園の創設者である小野太三郎は、天保11年(1840年)金沢の中堀川町(現・金沢市堀川町)にて生まれ、16歳の頃に白内障を患い当宮にて祈願を続け、100日目に神のお告げを感じて、奇跡的に治癒したと云われています。後年この話がウワサを呼び、願掛けを100度続ける“お百度参り”をする者が急増したと云います。